わたしの人生の航跡として書かせて戴きました。
私は昭和9年、鹿児島に生まれ、今年は77歳の喜寿を迎えます。
これまでの人生を振り返って見ますと、昭和16年・小学2年
生の時、学校の校庭に在校生が集合させられ、我が日本帝国の
陸海空軍は“本8日未明・南太平洋上において米英軍と戦闘状態
に入れり”の発表と共に太平洋戦争(大東亜戦争)の宣戦の詔勅
が玉音放送により発表され真珠湾攻撃を敢行して戦闘態勢に突入
したことを知らされました。
戦争がはじまると日本国中が臨戦態勢を整えて、「撃ちてし止
まん・鬼畜米英」「起て一億の底力」「進め一億火の魂だ」「欲
しがりません勝つまでは」等のスローガンを翻して国防運動に参
加したものです。開戦から半年は破竹の勢いで南方の要衝を攻略
善戦したが、その後は武器の不足と輸送路を断たれたりで、各地の宣戦に暗雲が立ち込めて、忽ちのうちにアッツ島・サイパン島等が玉砕して南の前線からの後退が始まり、飛行機も軍艦も不足し戦場に駆けつけるも、その燃料もなくなり日本の最後の戦艦と言われた「戦艦・大和」に至っては、息の片道の燃料だけ積んで帰りの燃料は積んでいなかったそうです。
一方内地の国民は、各家庭の金属はすべて、小刀類からお寺の鐘まで供出させられ、また燃料の素になる、ひまわりの種も供出させられた記憶があります。戦況は愈々追いこまれ、沖縄に連合軍(この辺りからソ・中2ヶ国が参戦し連合国は4国になった)が上陸し、次は鹿児島に上陸という時に、広島、長崎にあの悲惨な原子爆弾の洗礼をうけて、その後まもなく天皇陛下の玉音放送により、「終戦の詔勅」を賜り、今まで経験したことのない無条件降伏を喫したのであります。
戦争は終わり静かになったものの、市街地は瓦礫に覆われ、電気も点かず、菜種油のランプを灯した窮乏生活が2ヶ月くらい続き不自由な時間を過ごしたことを覚えています。
それから少し経って、世間が落ち着いてきた昭和21年4月、中学校に入学。
中学校に入学したものの、殆ど勉強もしていないし、不安の様子を母が察知して、お前は落ち着きがないし、これから人前に出ることも多くなるから、せめて文字だけは奇麗な文字が書ける様に書道の稽古をする様にと、黒っぽい藁紙を20枚程度糸で綴じ込んだペン習字練習帖を作ってくれました。
暫くペン習字の練習をしていたが、毛筆書道に興味を覚え夢中で稽古に励んだ。戦後の物資不足のあの頃は書道半紙も思うように買えず、半紙の表に漢字を書いて、それを乾かしてから裏に仮名の練習をする様にして、無駄なく半紙を使う様に心掛けました。学校が夏休みになれば、家から食料を持ち寄って、書道研究室に籠り、朝から晩まで時の経つのを忘れて練習したものです。展覧会も競書も実力を競っているわけですから、友達はみんな良きライバルであったように思います。
26歳の時に自分の書道に自信がなくなり、長いスランプに悩んだことがあって、そのスランプを克服する為に、中央の先生に指導を求めて上京しました。東京の自由が丘にお住まいの青山杉雨先生(芸術院会員・文化勲章受章者)の門を叩いて弟子に加えて戴きました。青山杉雨先生の厳しい指導をうけ、毎日書道展、読売書道展、日展と次々に入選させて戴きました。これらの恩に報いる事も出来ない儘、(平成5年)恩師・青山杉雨が長逝され、茫然自失した日が昨日の事の様に思い出されます。(合掌)私にとって、これまでの生き方は、苦節60年、書道に明け暮れた、書道人生だった様に思います。
定年退職を迎え、第2の人生をどの様に過ごすかと考えてみましたが、パソコンなしには考えられない事に気付き、パソコンの勉強をしようと思い立ってパソルームに入学しました。入学したものの先生の期待に追い付かず、教室の仲間の皆さんにも大変迷惑をお掛けしております。書道の事しか解らない私が、真逆のパソコンに挑戦する事など考えもしなかった事です。これから先まだまだご迷惑をお掛けする事と思いますが、今後とも何卒よろしくお願い致します。(感謝)
鮫島さんは、金2レギュラー後期のクラスに在籍されています。
このクラスは、お試し講座の1回目から、皆さんとても仲良しで、賑やかなクラスです。
お写真の真ん中が、鮫島さんです。 いつもニコニコ、笑顔が素敵で、ダンディな方です。
鮫島さんの書道の作品を拝見したことがありますが、本当に素晴らしいです!
そして、大変困難な時代の中、書道とともに人生を頑張って歩まれてこられたのですね。
今はさらにたくさんの趣味をお持ちで、毎日が充実されているご様子です。
パソコンを楽しみながら使っていただけるよう、お手伝いさせていただきますね。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。(中野)
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